オリンピックをやることに意味はないのか?

遅ればせながら東京が2016年の開催地招致に落選したことについて書いてみる。
といっても落選したこと自体について書きたいわけではなく、落選の結果を受けて「ホレ見たことか」と息巻く方々のブログを読んで思ったこと。

代表的なものは池田信夫ブログでしょうかね。ご本人も

グーグルで「東京オリンピック反対」で検索すると68万件もあり、私のブログ記事が2番目に出てくる

とおっしゃっているし。
このエントリでの池田信夫氏の意見や、コメント欄およびトラックバック記事を読んで気になるのは、

  • 商業的だからダメ
  • 金使うからダメ

という意見がほとんどなこと。極めつけは
「オリンピックなんてやる意味はない」

という意見。
こうした意見は、池田信夫ブログだけでなく、オリンピックに反対するブログ各所で見かけた。
私がいわゆるスポーツバカで、一般人とは感覚が違うことは重々承知の上で、それでも思ってしまうのは、

「オリンピックに意味はない」なんて本気で思っているんだろうか?

ということ。

「商業的だから」「金使うから」という意見も含めて、「オリンピックに意味はない」と言っている人たちは、オリンピックの「罪」の部分ばかりを声高に叫んでいるが、オリンピックに「功」の部分はないのか?

1964年の東京オリンピックを実体験した人たちは、オリンピックで世界最高のスポーツ選手たちの闘いを目の前で見ることができたこと、海外から多くの観光客が訪れ、日本を知り、彼らと交流したこと、そうした熱気という「プライスレス」なものを得たのではないのだろうか。

少なくとも私にとっては、長野オリンピックノルウェーの人たちと肩組んで知りもしないノルウェー国歌歌いながら歩いたことや、新幹線でお会いしたアメリカ人ご夫婦との交流、間近の表彰台で見たダーリの笑顔は忘れられない思い出だ。
ドイツのワールドカップではもっと多くのものを得た。試合を生で観戦したことは言うまでもなく、ドイツの高校生たちと一緒に社会化見学したこと(それも飛び入りで)、ブラジル人たちと大騒ぎしたこと、それどころか世界中の人と一緒に写真撮ったり、会話したり、ハイタッチしたり、ハグしたり、大声で叫んだこと。
興奮や感動が絶え間なく続いて、自分の閾値がどこにあるのかわからなくなるほどの体験。それら全てが自分にとっては大きな財産として残っている。

果たして、そうした「功」の部分についてはどうお考えなのか。

IOCが例え商業団体で、見えないところで利権が動いていようと、世界中のアスリートたちが闘う姿にはなにも関係がない。ウサイン・ボルトの世界最速記録は金では買えないのだ。世界中の人たちとの交流は金を払ってすることではないのだ。
招致や開催のために金は使っても、払われるべき対価があれば問題ないはずだ。それは決して経済効果という「金対金」の遣り取りだけではない。経験、体験、思い出、記憶、なんでもいい、目に見えぬ「金を使うべき価値」があればそれでいいのではないだろうか。

スポーツにも、コミュニケーションにも、そうした思い出にもまったく価値を見出せない、という人たちもなかにはいるかもしれない。そういう人たちにとっては「功」などないのかもしれない。
しかし、逆にそうしたことに大いに価値を見出す人がいるということもわかって欲しい、と思う(やや弱気)。
「商業的だから」「金使うから」、だからオリンピックに意味はない、という人たちは、自分の価値観以外を認められない矮小な人間であると公言しているようなものですよ。
マンガやアニメは好きじゃないからオタクを否定している人たちと変わりないんじゃないですか?(変わらないよ、と肯定されてしまえばもう何もいえません)

「じゃー、お前がリオにいけばいいんじゃねえの」という意見もあるだろう。そりゃ行けるなら当然行きますよ。だけどそれはあくまでも「客」なのだ。ホストとして、お客を迎える側でしか味わえない喜びもあるはずなのだ(私はまだ実体験したことがないので推測でしか語れないが)。
東京五輪を経験した人たちどうですか?長野の人たちどうですか?大変だったけど、多くのものを得た、っていう人いるんじゃないでしょうか?

オリンピックにも意味はある、そして価値もある、ただし、それだけの金(税金)を使うほどのものなのか、という指摘であれば「温度差」だなあ、くらいのことを感じる程度だったと思うのだが、さすがに真っ向から存在意義を否定されてしまうと、それを愛する人間としては非常にツライものがあるとですよ。

以上、ひとりのスポーツバカの思ったこと、でした。